トミーは右の少年、ビールを注いでいるのは実の兄「小花和重太郎」です。
 この写真は拡大してありますが、実際はこの1/4ほど(113 × 92 mm)の小さな写真です。
 写真の原板は、重太郎の子孫である小花和家の所蔵品です。

 当時の写真は「銀板写真」のあとに出てきた「湿板写真」というもので、ガラスの板にコロジオンという液体を塗布して、この感光膜が湿った状態で撮影したそうです。  露出時間が銀板写真の約3分に比べて、湿板写真は10秒以下と大幅に短縮されたので、このような「スナップ写真」が可能であったと思われます。
 資料提供:栗田田鶴子先生

 これは写真の桐箱の蓋裏に書かれている文字です。
 右端の「慶応三年、1867年」の文字は、写真の所有者によって書き足されたものです。

 当時、重太郎と桂次郎は将軍に供奉して東海道を往復しており、撮影場所や撮影者に関して様々な考察がなされておりました。
 金井圓教授(東京大学)は撮影場所について大坂城駐屯中である可能性が高いと推察され・・・・・
 トミーの外孫で研究者の櫻井成廣教授(青山学院大学)は、撮影者は下岡蓮杖と思われる・・・・・と推察していました。

 2004年1月25に古写真研究家森重和雄先生が実際に写真を手にされ、以下のような仮説を立てられました。

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 「露園蔵」の文字は撮影者の名ではなく、写真の所有者の雅号を意味する可能性が高い。
 桐箱の内側の縁取りの形(曲線)が中川信輔の写真に見られること
 中川信輔の写場(しゃば)が当時大坂心斎橋北にあったこと
 中川信輔はその翌年、アーネスト・サトウらの集合写真を撮っていること
 トミーは、1867年5月3日(慶応三年三月二十九日)、将軍徳川慶喜と米国公使ヴァン・ファルケンバーグとの内謁見で通訳を努めており、 おそらく、その謁見の後で中川信輔の写場に立ち寄り撮影したのではないだろうか。
 兄重太郎の視線が非常に親しいものに向いているように見え、それがアーネスト・サトウかも知れない。
 あるいは、アーネスト・サトウが自分の写真機を用いて中川信輔の写場で撮影した可能性もある。そうだとすると、写真の箱に中川信輔の焼き印がないことがうなずける。

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 この仮説をお聞きして筆者は思いを巡らせました・・・・・
 この日トミーは上様(将軍徳川慶喜)と米国公使の通訳という大役を果たし、親しい外国人(アーネスト・サトウ)からイギリスビールをもらった・・・・・
 いうなれば、これは祝い酒で、だからこそ兄の重太郎が弟の桂次郎に酒を注いでいるのではないだろうか・・・・・
 兄の重太郎は、この日の弟がとても誇らしかったのだろうと思えてなりません。


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